column[コラム-雑想]

兵庫県、神戸と大阪の間、いわゆる阪神地区。ごく普通の県立高校卒業後、4年制一般大学(なんと、法学部!)に入学するが、通学に片道2時間以上かかるうえ校風になじめず(ただ、キャンパスから一望できる京都市内の景色はすばらしかった)そのうちスーパーマーケット早朝のアルバイトに精を出した。そこに集う年齢を超えた人間模様に学校とは異なる社会の空気とでもいうのか、良い刺激を受けていた。

 

ゴミを出す鉄製の大きなカゴを外に出して片付けるのだが、軍手をしても特に手が冷たい冬の朝だった。

黒が混ざった濃紺色した西の空、六甲山脈上に沈む月と、頭上に広がるアカ味が弱まった濃いブルーを経てクリーンな東の空に明るい光を放つ太陽を身に受けて、澄んだ空気の中、現状打破を思い立った。

(漫画「巨人の星」でも似たようなシーンが。…月は東に日は西に。あれ、逆だ…)

 

そうして稼いだお金で大学と並行して(たしか)「Oデザイン専門学校」のレタリング専科へ入学。半年の間だったが、ここで欧文、和文と二人の先生に習う。

 

文字デザインについては、高校在学中も「日美」の通信教育で基礎を学んでいたが講義は刺激的だった。単に描き方という技術だけではなく、たとえば欧文の場合、直線と曲線の持つ意味についてや、一見単純な文字の中にどれだけの構成要素が潜んでいるか、などを当時年配と感じていた先生が熱く語るのをきいて、いやぁおもしろいなぁ、アルファベットってもっとドライな構成基準なのかとおもっていたら、こんなにも情緒的にとらえることもできるんだ、と感激。SやOの曲線をまるで女性の美しさを語るように教えてくれたあの先生、どうしてるだろう? うろ覚えだが、ちょっとムツゴロウ(畑 正憲)に似ていたような…

 

一方、和文の先生は少し若い印象だったが、漢字、かな、カタカナについて、逆にすごく論理的に説明をしてくれた。当時はパソコンではなく、溝引きなどを駆使して墨や絵の具(ポスターカラー)を用い自分の手で描いたのだが、そのコツを教えてくれた。

 

習ったばかりの頃に、変な自信から家の近所にあった個人経営カメラ屋(DPE)に勝手にメニューをレタリングして、使ってくれないか? と持ち込んだ。何ともしれない若いやつが押しかけてきて店主も対応に困っただろう。なんといって断られたのか記憶にないが、仕事、交渉の飛び込み実地、体験学習を誰に乞われたわけでもなく、自主的に行っていたのだ。ま、若気の至り、ですが。

 

当時の参考書が桑山弥三郎「レタリングデザイン」ボロボロになるまで読み、文字をトレースしたりして使い込みました。

 *この本の推薦者は、田中一光・佐藤敬之輔の二人。

文字へのこだわりが深い偉大なデザイナーが「良書」として薦める意味は年が経つほど実感!

後ほど受験する美大デザイン科にこの先生がいる事を知り、他は受けず1校1科のみで挑戦するも、入学した年にその先生は辞められていました。がっかり…

 

でも、そうやって義務教育ではなく自腹を切って学びにいったことで、やる気もでてきて、そのデザイン専門学校の紹介で、当時はどんどん伸びていたスーパー「D」○○店のPOP描きをアルバイトする事になった。

 

バイト初日、そこにいるはずだった10年勤務のベテラン社員は、やめた直後だった。

えぇ~!? 一緒に入ったやはり専門学校出のほぼ同年代の女性と、いきなりその日から二人で店舗全体のPOPを任されたのだった。これは困った! ノウハウが全くわかないまま、それでもどんどん売り場から依頼がくる。

 

描き残されたヤレを見ながら、見よう見真似。時には店員さんから励まされながら。

POP室は店からすると、少し離れた一角に建てられた一室(仮普請の小屋?)で、休憩兼ねて寄る人もいて、書店売り場のお兄さんとは本の話題で盛り上がったり。

 

そこは別棟ではあるが、無理に一部屋だけ増築した感じ。木造の古アパートのような、強い風が吹くとギシギシと音が鳴るその部屋で作業する我々POP担当者のデスクは、なんとふすまを取り外した押入だった!

 ※独立して借りたアパートでも、最初は押し入れデスクを活用しました。

 

今と違って当時のPOPはすべて手描き。一枚一枚紙に筆で、しかも店からの依頼はひっきりなしなので、枚数も多い。仕上がりは筆ひとつで全く異なるのです。それまで勉強してきたレタリングは役に立ってはいたが、まだまだ実践的では無かった。

 

そんな懐かしい現場だったが、簡易なシルクスクリーンも体験したし、なにより数ヶ月すると最初はあんなに下手だった字があきらかに上手になり、いわゆる筆さばきも良くなり、スピードもアップし、余裕を持って描けるようになった。

 

突然家族が店に来たこともあった。「あれを描いたのはお前か」と問うた真意はうまく描けてるだったのか、見るに耐えない、だったのかは聞かずじまいだ。

 

いずれにしろ、やればできることってあるんだ! 動かない限り何も変わらないんだ!

という気持ちになった。そして、高校の時に運動部の部室が同じだった友人に(ぼくはバレーボール、彼は体操)相談した。彼は美大をめざして二浪していた。

 

高校の時、隣の席になったときに美大に行くと聞いていたが、当時のぼくはどういう所なのかという情報もないうえ、両親の負担も考え最初からあきらめていた。

 

が、冒頭で述べた大学は全然出席日数が足らず、まともに4年で卒業することは全くありえなかった。だったら、一度だけ「美大」という世界に挑戦し、ダメだったらPOP描きで働こう、とあてもないのに甘く考えていた。

 

そして、二浪の彼に話を聞きにでかけた。お父さんが新聞社の写真部だというのは、そのとき初めて知った。環境ってあるんやなぁとサラリーマン家庭の自分では… と、少し気後れるが、彼は「ふ~ん、ほんならやったら」の短い一言で、後は他愛ない話題で高校時代に戻った「進路相談日」だった。

 

その結果、夏から美術専門予備校の夏期講習会に行くことにした。

大阪市内へは映画を観るとか、百貨店とか、何か用事がないと出かけなかったのだが「N美術学院」のため、暑いひと夏をほぼ毎日のように天満橋へ出かけ、充実して過ごした。

 

夏期講習会。ぼくの周りはほとんどが現役高校生。

みんな目的をはっきり持ってきているのでさすがに手慣れた感じでデッサンや平面構成をこなしている。

中には、その無難な取り組み方ではイカンと講師から指摘されている者もいた。

 

目立って上手い人はやはり作品講評時に取り上げられるので、会話はしたことなくても作品で記憶しているものである。何人かは同時期にM美大入学することになり同級生もいれば、いまなお仕事でつきあっている者もいる。これも「縁」。

 

休憩時や講習後は、二浪三浪四浪の諸先輩(?)たちの本科をのぞき、教室にまぎれこんだり、終わってから時には遊びに出かけたりして、その際美大受験素人のぼくは、きっと的外れな初歩的な質問をしたが、冗談の合間に技術的なアドバイスを受けたりした。

 

また、休みの日には浪人組みんなで市内のギャラリーや京都の美術館に出かけて、鑑賞後の美術談義に耳を傾けていた。そんな課外学習も充実してた日々だった。

 

美大受験、雪の降る寒い季節に、ぼくは埼玉の親戚宅から道具を持って向かった。

デッサン、平面構成。その課題は何だったろう? すっかり忘れてしまった。

友人の浪人生たちの緊張感はぼくにはなく、なんといっても周囲の実力を間近にみてきたから、自分は落ちても当然! くらいの気持ちだった。

それが余裕とまではいかなくても、逆にプレッシャーが無く、良い方向に働いたようだ。

 

しかし、合格するとは思ってもいなかったのは、ぼくだけでなく家族もそうだった。

通知を受け、あわてて戸籍謄本の手配したりなにより下宿をさがしたり引っ越しの段取りをしなくてはならなかった。

 

自分の環境変化はとても大きかったが、当時は高揚感で乗り切ったのだろう。フォローをしてくれた家族の心労に恐縮しサポートには感謝しかない。

 

火事場のなんとかで、とにかく東京は武蔵野の奥、小平市にある美大へ入学することになった。

デザインを「学ぶ」、あるいは「悩む」スタートである。

 

(初出 2010[H22]12.15/改訂 2017[H29]6.9)

 


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